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 私の精神の支柱となる四人の内の最後の方が、年明け早々に亡くなった。梅原猛氏。「梅原日本学」は世に広まった呼び名だが、この方の肩書を一言で括ることはできない。哲学者であること間違いないのだろうが、日本古代学、仏教論、更に後年はスーパー歌舞伎も手掛けられた。
 この方の著書に初めて出会ったのは、20代半ば。『神々の流竄』だった。大和政権によって敗者として出雲に追われた神々がテーマだった(ただ、後年『葬られた王朝』により自らの説を否定するという勇気ある著書を出している)。次は、『水底の歌』。斉藤茂吉によって定説とされている島根県鴨山山中で客死したとされる柿本人麻呂像を覆し、島根県沖で刑に処せられ水死したとの説を唱えた。『隠された十字架』では法隆寺は聖徳太子の怨念を鎮めるために建てられたと論じた。何れも、時の権力者によって葬られた敗者に目を当てた著書だった。
 そして著書以外でも、脳死を人の死とすることに異論を、そして九条の会では非戦を唱えた。

 冒頭の言葉は、梅原猛氏を良く知る方の梅原氏の人物評だ。それまでの常識や定説を是とせず、権力者に与することもなく戦った。それでも相手をこき下ろすことはなかった、という。思想・信条、生き方が異なるとしても相手の人格は否定しない。これは、人として心しておかなければならないことと思っている。

 社会で蔑にされ置き去りにされた人たちへの苦しみを分かち合わんとの思いと、その人たちへの真の優しさ。それは、つかこうへい氏、早坂暁氏、そして半村良氏、他の3人にも共通する思いを感じる。
2018.12.15 『神田川』
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 1976年.キヨタは高校を卒業し今治を離れ一人暮らしを始めた時の部屋は木造モルタル塗り2階建ての四畳半ひと間のアパートでした。風呂とトイレ(と言うより便所)は共同。台所もなく三和土の脇に洗面台とコンロが1台置けるほどのものでした。家賃は9,000円だったと思います。それでも南側に大きな窓があり天気の良い日中は夜明けから日没まで陽のあたる部屋でした。
 
 その少し前から『四畳半フォーク』と呼ばれる歌が世に広まって行きました。若い男女の貧しい暮らしを描いた音楽です。それ以前には体制批判的な社会派フォークが若者に受け入れられていましたが安保闘争が終焉した後、抒情的なフォークソングが生まれました。

 『四畳半フォーク』の代表としては。男性3人グループ「かぐや姫」の『神田川』と『赤ちょうちん』です。『神田川』が発表されたのは1973年。キヨタが高校1年の時です。深夜ラジオから流れて来た曲は、女性の側から描いた詩とバイオリンの音色が醸し出すもの哀しいものでした。何度も何度も聴きたくて初めて買ったレコードでもありました。当時、表裏に1曲ずつ収録されたシングルレコードは500円だったと記憶しています。
 この詩の中で今でも一番印象に残るのは「(男性が)二十四色のクレパス買って あなたが描いた私の似顔絵 上手く描いてねって言ったのに いつもちっとも似てないの」というところ。恐らく女性が描いて欲しかったのは外見の顔かたちだけでなく、今の生活に対する細やかな幸せとそれ以上に大きな将来への不安だったのではないでしょうか。それなのに男性は女性の内面を分かろうとせず描けなかった。だから「ちっとも似てないの」と感じたのでしょう。そんな二人のアパートの「窓の下には神田川」。

『赤ちょうちん』で歌われている状況もほぼ同じです。「雨が続くと仕事もせずに」「それでも時々寒い夜 赤ちょうちんに誘われて おでんをたくさん買いました」。女性は男性を「別れた 寒い夜 公衆電話の箱の中 膝を抱えて泣きました。」

 その神田川は、東京都の中西部にある井の頭公園から途中で高田馬場付近を流れ都区内をほぼ東西に横断し隅田川に注ぐ凡そ25㎞の川です。『神田川』の舞台になったのは、高田馬場付近と言われています。先日、所用があり高田馬場に行きました。お目当てのイベントには少し時間がありましたので、駅周辺を歩いていると、まさにこの2曲に相応しい(勿論、実際の場所ではありませんが)雰囲気のある場所に行き当たりました。

 
 『神田川』で「赤い手ぬぐいをマフラーにして 二人で行った横町の風呂屋」とは別のお風呂屋さんでしょう。
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 窓の下を神田川が流れるアパート(これも別の建物です)
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 月に一度の贅沢でお酒を飲んだ赤ちょうちんのあるおでん屋? 
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11月10日、久しぶりに休日に都心へ出かけました。夜、友人と会う約束をしていましたが、その前に神宮外苑のイチョウ並木の観察。
半分以上青い状態でした。

最寄駅は地下鉄半蔵門線・銀座線の外苑前。渋谷駅からの乗車時間は10分弱です。国道246号線(通称・青山通り)を東へ500m程入った所に交差点があり、そこから北へ真っ直ぐな並木通りがあります。

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並木の奥の突き当りに見えるのは明治記念絵画館。
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絵画館に隣接しする新国立競技場の工事も五輪に向けて工事は進行していました。高校生の時、一度だけ走った旧国立競技場の面影はなく、もう一度走りたかった夢も潰えました。
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 あの日、あなたは、夜空から撃ち落される夥しい閃光を見あげ、どれ程の恐れを抱いたのでしょう。火の海の広がる地上を見下ろし、どれ程の涙を流したのでしょう。そしてあなたには、緩やかな坂を上り逃げ惑う少女たちへの機銃掃射は見えたのでしょうか。

 昭和20年8月5日の夜11時50分頃。太平洋戦争もいよいよ末期。今治上空に数十基のB29爆撃機が飛来、凡そ2時間にわたり空襲が行われました。同年4月26日、同年5月8日に続く3度目の空襲でした。この空襲による死者は400人を上回り、市街地の凡そ8割が焼け野原となりました。戦後間もなく引き揚げてきた際に今治に上陸した愛媛出身の作家・早坂暁氏は「今治の町がなくなっている。」と呟かれたそうです。

 今治には戦時中、紡績工場の施設を用いた兵器製作所や航空機工場などの軍需工場がありました。地方の一都市にしか過ぎない今治が3度も空襲を受けたのはそのためかもしれません。ただ当時、学徒動員により働いていた方の記憶によると「航空機工場とは言え作っていたのは模型。いわば張りぼての飛行機。既に日本に実際に空を飛ぶような戦闘機を作る力はなかった。それでも国民にはそれが模型だとは言わず本物だと思わせ、まだまだ日本には余力はあるのだ、と国民を騙していたようなものだった。」そうです。その軍需工場に松山の女学校の生徒さんたちも多数、動員され働いていました。その女学生も3度目の空襲に巻き込まれました。

 軍需工場は今治市街地の北外れにありました。その夜、女学生は空襲から逃れるため更に北を目指して走りました。しかし途中、工場から2㎞ほどの馴合坂(ナレアイザカ)に差し掛かったところで機銃掃射を受け24人が亡くなりました。この馴合坂は、今でこそ西瀬戸自動車道(しまなみ海道)のインターチェンジ付近で道幅も広く交通量も少なくありません。しかし、今から70年以上も前、民家もなく悪路であったと思われます。ましてや頼るべき灯りもない深夜。女学生たちはどれ程の不安に苛まれ、心細さの中で逃げ惑っていたのでしょう。それにも増して、もはや戦況に大きな影響も与えない女学生たちを狙い撃ちした
兵士たちの心境はいかがなものであったのだろう。今治から瀬戸内海を挟んで北西へ140㎞程の広島に原爆が投下される凡そ6時間前、終戦10日前のことでした。犠牲になった女学生は坂から更に北にある海辺で荼毘に付され、遺骨の一部は近くのお寺に埋葬されました。そのお寺には「殉職女子学徒の碑」が建てられています。

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因みに今治市内では1回目の空襲で明徳高等女学校生4人、2回目には学校の裏手の姫坂山に避難していた今治高等女学校生11人が爆撃弾の直撃を受け亡くなりました。

今治高等女学校(現・今治北高校)の校舎脇には11人の碑、その横には学べることに感謝する生徒の像が建っています。

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そんな今治を戦前の昭和2(1927)年から見つめ続けている建物があります。戦火を逃れ当時の外観をそのまま残す『今治ラヂウム温泉』です。戦災を逃れが数少ない建物です。尖塔とドーム型天井のある公衆浴場には昭和20年の今治の記憶は残っているでしょう。そのラヂウム温泉も戦後の少女たちにとっては新しい時代への象徴であったようです。2階に設けられたダンスホールへの階段は、まさに少女にとって大人への階段。70~80年代の女性の多くのラヂウム温泉の思い出は、ドア越しに覗き見た社交ダンスに興じる大人たち。それを見て新しい時代への扉を開こうとしていたのかも知れません。

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ただ、子供の頃のキヨタには何故かこの建物には近づいてはいけない大人の世界を感じていました。当時、温泉近辺は夜の歓楽街だったはずで淫靡な大人の雰囲気を漂わせていたような記憶があります。

そんな世代を超えた記憶の残るこの温泉は平成26(2014)年に営業を終え、今は国の登録有形文化財として保存されています。この先、単に建造物としてだけでなく、これまで見続けてきた戦災やその後の移り変わる今治の歴史も次世代へ刻み残しておいてほしいものだと思います。

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 子供の頃からの得手不得手は変わらないものなのでしょうかね。近くの公営の体育館で行われた年に一度のイベントで4種目の体力測定をしてきました。結果は予想どおり。

 体力測定の前に、健康体操とエアロビクスに参加。普段、馴染みのない運動ですが、音楽に合わせて体を動かすのは楽しいものです。いつも通っているスポーツクラブのプログラムにもエアロビクスはあるのですが、皆さん通いなれているメンバーばかりのようなので初心者には入りづらい。ですから、このようなイベントがあると嬉しいです。

 そして、いよいよ体力測定。種目は握力、長座体前屈(足を延ばした状態で上半身を前に伸ばせる長さの測定)、上体起こし(腹筋=20秒間で出来る回数)、そして20秒間の反復横跳び。この種目では、子供の頃から握力は弱い方、腹筋はふつう、体前屈(体の柔らかさ)と反復横跳びは得意。そして40数年ぶりの測定の結果は…。
握力は右39.3kg、左40.7kgで60~64歳の平均値で年相応。腹筋は19回で55~59歳の平均値。反復横跳びは44回で50~54歳の平均値。そして体前屈はなんと、43mで25~
29歳の平均値でした。腹筋と反復横跳びはもう少しできるかな、と思いましたが、ここ20年ほど瞬発系のトレーニングはしていませんでしたので、今はこの程度かな、と言う感じでした。今回の測定対象にはなかったのですが、背筋やスクワットは得意で30~40歳くらいのレベルにはあるのかな、と勝手に思っています。
 普段は、筋トレも軽めの負荷でスローな動きを繰り返えしていますが、時には重めでスピードのある動きを取り入れてみてもいいのかな、と感じました。

 測定後は太極拳に参加。2年前にも参加したことがあり、結構お気に入りの運動です。指導者の方の見よう見まねではありますが、ゆったりとした動きの中で、バランスや筋力が鍛えられ、そしてリラックスできる感覚が好きです。ただ、これも日常、気軽に参加できる機会がないのが残念です。
 お昼休みのフリータイムで卓球に挑戦。卓球のラケットを持つのは高校生の時以来でしょうか。最初はなかなかラケットに当てるタイミングが合わなかったのですが、打つ時に玉を迎えに行くのが良くないそうで、指導員の方から教えていただいた「待って、打つ。待って、打つ。」を意識してみると何度も打ち返すことができ楽しいラリーを続けられました。何事も、せっかちは良くないのかも知れません。
 
午後からも面白いプログラムはあったのですが、今年はここまで。年に1度の機会ですが、日ごろ行わない体の動かし方や使い方を体験でき、楽しい半日でした。

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