4月4日

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今日の話題は「悪意はありませんでした」。

その前に、これは4月1日の写真です。横浜市の鶴見川沿いのラン練習コースにある桜。この時はまだ8~9分咲きで週末が見ごろかなと思っていましたが、その後の雨で満開になる前に既に散り始めています。雨に悪意はありません。
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練習コースのスタート地点近くにある『一本桜』(勝手に名付けました)。
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隣接する団地の灯りに映えるので夜桜見物には最適です。
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水温む鶴見川の照り返しも、春の陽光。
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 さて、本題。例えば…。
ある人から品物を買いました。ところが後になって、その品物はその人が盗んだ物だったと分かりました。盗まれた元の持ち主が、「それは盗まれた物だから、本当の持ち主の私に帰して下さい。」と言ってきました。さて、あなたはその品物を返さなければならないのでしょうか。

 近頃の話題に絡んで「悪意はなかった。」という言葉を聞きましたので少し気になりました。日常、悪意と言うのは、周囲に害を与えようとする気持ちに対して使われます。それで言えば「悪意がなかった」というのは、わざと人をだまそうとしたのではない、ということになります。多少の情状酌量の余地があるかも知れません。ただ、法律上での『悪意』は日常の悪意とはやや異なります。これは悪意に対する善意と言う言葉も同じです。日常使われる善意は、周囲のことを思い善い行いをしようとする気持ちや、周囲の言動を善いようにとらえようとする時に使われると思います。

 ところが法律上では、悪意と善意は、「知っていたか」、「知らなかったか」で分けられます。知っていたなら「悪意の第三者」、知らなかったなら「善意の第三者」として使われます。先の例で言えば、あなたが、その品物が盗品と知っていながら買ったとしたら、あなたは「悪意の第三者」となり品物を返さなけえればなりません。一方、盗品とは知らなかった(普通に注意していても気づかなかった)場合は「善意の第三者」となり返す義務はありません(勿論、日常使われる善意と言う意味で返すのは別です)。(※ご参照)

 今回の騒動。弁護士が「悪意はなかった」と言っているので、法律上の悪意として使っている言葉だと思います。日常の悪意とは区別して受け止めた方がいいのかもしれません。ただ、知っていながら過ちを犯したのか、本当に気づかなかったのか(普通の注意を払っていても間違えたのか)、またどの時点で誤りに気付いたのか。ご本人にしか分からないことでしょう(若しかしたら、ご本人にも分からなくなっているのかも知れません)。冷静に客観的な判断を待ちたいものです。

 (※)これはあくまでも、大まかな解釈としてご理解ください。裁判に限らず、テレビなどの法律相談でもありますように、同じ行為でも法律家一人ひとりによって、法律の解釈や考え方、またその時々の状況で結果は異なりますので、全ての場合に当てはまるものではありません。

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ミヒツのコイ

 遊び気分でマンション5階のベランダから鉢植えを落としたら、たまたま下の道を通りがかった人に当たってケガをさせてしまった。落とした人には誰かにケガをさせるつもりはなく、たまたま人に当たってしまっただけなので落とした人には罪はない?
 
 食の世界で「誤表示」と言う名の「偽装」が止まりません。提供者側は「認識が甘かったと」か、「細かくチェックできていなかった」とかの言い訳で、単に間違えただけで意図して(故意に)騙そうとしたのではない、と言いたいようです。故意でなければ許されるの? ということで、前回に続きコイの話です。ミヒツのコイ。『秘密の恋』の誤表示でもなければ『密室の恋』の偽装でもありません。『未必の故意』の話です。

 人が罪を犯したとき、「故意」や「過失」という言葉が出てきます。
 交通事故の報道で容疑者が「自動車運転過失傷害」の疑いで現行犯逮捕された、というのは新聞などでも良く目にします。自動車を運転している時に、運転手に過失(事故を起こすつもりはなかったけれど、必要な注意を怠っていた等)があったことが事故の原因である時に使われます(因みに命を奪ってしまった時は過失致死)。交通事故に限らず、過失とは加害者側が意識して人や物を傷つける(罪を犯す)つもりまでははなかったけれど、不注意により結果的に傷を負わせて(罪を犯して)しまった、というものです(過失の程度によっては軽過失・重過失という捉え方もあります)。
 過失に対し、故意というのは、これから自分がしようとする行為がどの様な結果を招くか分かっていた上で、自分自身の意図としてその行為を行うことです。その行為が罪にあたる時は、当然のことながら罪に対する刑罰は過失より一般的には重くなります。

 未必の故意はその中間的な(或いは故意に近い)所にあります。冒頭の例の場合、鉢植えを落とす人は、誰かを傷つけてやろう、と言う明確な意図をもって落としたわけではありません。たまたま下を通りがかった人に当たってしまったのです。ですから故意とは言い切れません。それでも過失と違うのは、下には道があって人が歩いているかもしれない、そこに5階から鉢植えを落としたらどうなるかということ(結果)は普通の人なら十分予測することができます。それが分かっていながら落としたのですから、過失よりは重くなります。

 食の偽装。連鎖が止まりません。みんなで渡れば怖くない? どさくさに紛れて私も誤表示してました、と告白すれば一軒当たりの風当たりは弱まる、とでも思っているのでしょうか。「注意が足りませんでした、知識がありませんでした、結果的ご迷惑をおかけしました。」まぁこれがプロの言葉とは信じられません。特に近頃の言い訳によく出てくる『結果的に』と言う言葉。まるで、発端や経過には問題がなかった、とても言いたげです。偽装や偽表示をすればどの様な結果を招くかは、事前に、そしてその行為の途中でも予測できることです。これは過失を越えた未必の故意であり、更に利益を得るために行っていたのであれば故意にやっていたとしか思えません。店の経営者にしても、厨房現場にいなくても、収支状況を見ればメニューに提示されている通りの適正な仕入れがされているかどうか位は判断できるはずです。現場の責任だけでなく厳しく処分されるべきで、後はどの法律を適用して罰することができるか、だけです。

 ただ、この騒動。必ずしも料理提供者側だけの問題とも思えません。客も食べている時には自分自身では偽装メニューとは気づかなかったのですから。ブランドや風評に左右されず、食を楽しむこと、食べられることそのものを楽しむことが望ましいのではないでしょうか。テレビの深夜で有名シェフや料理評論家が、飲食店やファーストフードの料理をランキングする番組があります。料理の美味しい、美味しくないは、人それぞれの好みだけでなく、何時、誰と、どのような状況で食べるか、で同じ料理でも味わい方が違うはずなので、ランキングに何の意味があるのか良く分かりません。どうせならこの人たちに、偽装メニューを見破る内容に変えた方が面白いかも。

 いずれにしても、この騒動、キヨタには関係ありません。ホテルでステーキを食べることも、車エビをオーダーすることもありません。例えスーパーで30%割引になった売れ残り商品が食材であったとしても、仕事を終えトレーニングを終え、自宅でのんびり食べる妻の手料理が一番美味しいです(偽装されていなければ!?)。 

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最高裁判所裁判官国民審査

 呼称は堅苦しいのですが、皆様のご家庭にもこの1週間くらいの間に、各都道府県の選挙管理委員会が発行する新聞紙のような「最高裁判所裁判官国民審査 審査公報」というのが配布されると思います。その公報には最高裁判所裁判官の氏名、写真とともに、略歴、最高裁判所において関与した主要な裁判の事例、そしてそれぞれの裁判官の裁判官としての心得というものが載っています。何のために、このような公報が配布されるのでしょう。それは私たち有権者の権利として、最高裁判所の裁判官を罷免(やめさせること)ができる国民審査制度に活用するためです。

 12月16日は衆議院議員選挙です。ご経験のある方はご存知と思いますが、衆議院議員選挙の投票が終わった後、投票所で最高裁判所の裁判官の名前が記された用紙を手渡されます。今回は10人の名前が載り、その名前の上に枠があります。ここが選挙の投票用紙と異なります。選挙の場合は投票用紙に当選してほしい候補者名や政党名を有権者自身が書き込みます。これに対し、国民審査の場合は、裁判官を罷免(やめさせたい)人の名前の上に×を記入します(用紙には×以外は書かないでください。裁判官として認めるから○、等を書きますと無効票になってしまいます)。そして×を書かれた数が投票数の過半数を超えると、その裁判官は罷免されることになります。因みに、過去21回の国民審査が行われましたが、一人として罷免された裁判官はいません。これまでに最も×を付けられた割合が多かった裁判官でも10%半ばくらいだったと思います。このためこの審査制度自体、全く形骸化しているとの意見も少なくありません。その理由も分からなくはありません。
 一番の理由は、審査公報を読んでも中身が分からないことも少なくないことです。
 次に、審査制度自体の存在の意味が分からないことと思います。
 そして、私たちは、なかなか普段かかわりのない人に対して×を出すことはしないだろうと思われることです。

 しかし、この制度は私たちにとってとても重要です。最高裁判所裁判官は法の番人の最後の砦とも言えます。最高裁判所で出される判決は私たちの日常生活や企業活動その他に大変大きな影響をもたらします。ですから、裁判官が私たち市民の感覚と異なるような判断をするようであってはいけません。その為、それぞれの裁判官がどの様な裁判に関与し、どのような判断を下したかを知ったうえで、私たちがその裁判官を評価しなければなりません。その結果、私たち市民の感覚や考え方に近い裁判を行うよう導くことが可能となります。

 審査公報を既に読まれた方もおられるでしょうが、まだの方でお手元に審査公報が残っておられる方は是非一読されてみてください。ただ、関与した裁判の事例には、私たちの普段の生活では見慣れない言葉が並んでいて、読んで理解するのには大きな労力を要します。今は市民の裁判員制度が広まりつつあり、裁判の中ではできるだけ簡易な言葉が選ばれるようになっているのですが、この公報の文言はとても理解しづらいものがあります。もう少し改善してもらえる余地もあるのではないかと思います。
 それでも中には、国旗国歌問題や、危険運転致死罪、一票の格差に関する裁判などが挙げられていて、身近な問題も少なくありません。中には「切り餅」の絡んだ損害賠償事件などもあります。また裁判官とりての心構えには私たちの日常生活の上での心構えに通じる所も見つかるかも知れません。少なくとも、このブログよりも、楽しくて役立つことがあることに間違いありません。

日本で女性に参政権が認められたのは戦後。今年で66年。「婦人」と言う言葉に時代を感じます。
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被告人と被告

 「一字違いで大違い」。大喜利や寄席、お笑い番組などで時々お題になります。今回のお題は『被告人』と『被告』。どちらも裁判で訴えられた方の呼び名ですが、人が付くのと付かないのとでは大違いです。人でなし、と言う言葉もあるので、人が付く方がまだましなような気がします? ところが…。

 裁判には大きく分けて刑事裁判と民事裁判があります。
 刑事裁判は法律に定められた罪を犯した人が対象になります。通常は警察に逮捕されて検察に告訴される裁判です。告訴された人が「被告人」。裁判で有罪判決が確定すれば即、前科ということになります。罰金を払うくらいだけでなく、最高刑は死刑です。ただあくまでも被告人は有罪判決が確定して初めて犯罪者となるのですが、市民感覚では、逮捕された時から白い目で見られがちになります。ましてや刑事裁判で「被告人」という立場になりますと、社会的立場を含め、極めて苦しい状況におかれます。職を失うこともありますし、家族にまで影響が及ぶことも少なくありません。
 一方、民事裁判は罰則の伴う罪を犯したのではなく、通常生活の中での争い事が対象となり、警察に逮捕されることはありません。貸した物を返してもらえないとか、損害賠償、離婚問題、不当解雇だ等と言うのが対象です。この民事裁判で訴えられた方が「被告」。裁判に負けても金銭的な支払い義務が生じるなどのことはありますが、身柄を拘束されたりすることはなく前科にはなりません。
 どちらかと言えば民事裁判の方に「人」が付いた方が、まだましなように思うのですが、法律上は違います。
 
 政治家・小沢一郎氏の無罪が確定しました。検察審査会の議決により強制起訴されて以来、凡そ3年7カ月の間、被告人の立場にありました。検察が告訴を見送ったことに対し、市民感覚で議論された審査会の議決を受けての年月でした。その間の、小沢氏の政治家としての立場や、日本の状況は申すまでもありません。

 キヨタは、小沢氏に対し特段の思いも何もありません。ニュートラルな立場から「疑わしきは罰せず」が大原則の現行の刑事裁判においては、無罪確定は当然の結果と考えるだけです。そして今回思うのは、市民感覚の危うさです。特に「自分たちでは判断できないので、裁判で白黒をつけるために起訴した」という理論には多少違和感を感じます。
 確かに今回の裁判において、検察が証拠をねつ造したことや、政治家の金銭感覚だどうだったとかの問題が現れました。その過程での検察審査会という制度そのものは尊重されるべきものと思います。ただ、その成果と、市民感覚だけで一人の人を被告人の立場に置くこととは少し違うような気がします。一つ間違えば「気に入らいない奴だから被告人にしてしまえ。」とまで行きつきかねないことは、防がなければなりません。

 被告人となっただけで、それまでの全てやこれからの将来を奪われたり大きく変えさせられてしまうこともあります。そして今回の裁判の結果、検察審査会制度に対する問題提起もなされています。折角、市民に与えられた権利として存在する検察審査会制度や裁判員制度を根付かせ有意義なものにしていくためにも、私たち市民自身の法律に基づく冷静な判断が求められます。

 なお蛇足ながら、かなり多くのマスコミにおいて「被告人」を「被告」と表現していることに対しましては、市民感覚として苦言を呈します。

 今日は雨、しかもスポーツクラブの定休日のため、こんな暇ネタを書いてみました。

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前科での立証、厳しく制限

 9月7日の最高裁で、被告人の有罪か無罪かを判断する目的として、その被告人の前科を証拠として使う危険性を懸念した判断が出た。極めて穏当な判断であると思う。

 今回の事件は、被告人が窃盗目的で民家に侵入した後に放火したとして、住居侵入並びに窃盗、現住建造物等放火の罪で起訴されたものだ。この被告人は20年前にも同様の事件を起こした前科が10件あった。これに対し東京地裁で開かれた一審の裁判員裁判では、検察側が提出した被告人の前科10件の証拠を「裁判員に不当な偏見を与えるおそれがある」として裁判所は証拠としては認めなかった。検察側としては過去にも同じ事件を起こしているので今回もこの被告人が事件の犯人であることを立証しようとしたのだろう。しかし裁判所は証拠を却下した。そして判決は、住居侵入と窃盗について有罪とし、現住建造物放火については無罪となった。
これに対し二審では、今回の事件の手口が被告人の前科とよく似ているとして、一審の手続きは違法と判断した。それを受けて弁護側が上告していた裁判での9月7日の最高裁の判断で、被告人の前科を証拠として用いるのは根拠の乏しい人格評価につながりやすく、事実認定を誤らせるおそれがある、として、前科を証拠とすることに制限を加えた。平たく言えば裁判員が「その人は前にも同じような罪を犯したから、今回もまた犯したはずだ。」という思い込みよる判断をしないようにしなければならない、ということ。

 裁判に限らず、私たちは日常でも人と接する時、その人の過去や経歴に縛られ今目の前にいる人に対し予断や偏見を持ったり、誤った評価をしてしまうことは少なくない。所謂、色眼鏡を通して人を見てしまうことは人の「感情」としては実際には少なくはない。
 しかし、普段でも、特に裁判の場ではそれはあってはならないこと。裁判では今回問題になっている事件の、現場・現物・現実を客観的に判断して、被告人が有罪であるか無罪であるかを決めなければならない。今回の最高裁の判断は、一般市民である裁判員に、被告人に対する予断・偏見を与えないために、被告人の前科を証拠として使うのに厳しい制限を与えたものである。

 ただ、日本の裁判員制度はアメリカの陪審員制度などと異なり、有罪か無罪かを決めるだけでなく、有罪であった場合どの程度の罪が妥当であるかという量刑の判断まで裁判員に求められる。このため、量刑の判断をする場合は、その人の前科の有無も大きな判断材料になってくる。再犯のおそれがあるかどうか、が大きくかかわってくる。
 前科は、有罪か無罪かの判断には用いず、量刑判断の材料だけにしなければならない。これは一般市民には難しい使い分けであり判断であると思う。
 現に9月8日付朝日新聞朝刊39面に今回の最高裁の判断に対する裁判員経験者二人の「前科があれば逆の判決(無罪ではなく有罪)になっていたと思う」、「前科を聞いたうえで有罪か無罪か判断したい。被告(人)の全体をみて判断したいから」というコメントが出ていた。私はこれは誤っていると考える。有罪か無罪かは、あくまでも目の前の事件に関する証拠のみを客観的に判断するべきであり、被告人に前科があるから有罪、というのは違う。そして被告人の全体を見て判断するのは量刑に関してのみであり、有罪か無罪かの判断材料にしてはならない。この辺りがまだ裁判員制度に対し私たち市民は成熟していないと思う。

 予断・偏見を防ぐための裁判員制度の改正や裁判官の工夫が求められているが、むしろ、これらは私たち自身が日ごろから偏見や予断をもって人と接しない、と言うことが大切になってくることだろう。難しいことだが、裁判員制度を通じて今問いかけられている。

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kiyo & yoko

Author:kiyo & yoko
努力は必ず報われるとは限りません。しかし、努力をしないと何も始まりません。いくつになっても努力を続けステップアップしていたいと思っています。

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