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日本で古墳時代は3世紀末から7世紀の頃と言われています。終わりは646年に出された薄葬令で墳墓や葬儀の大きさに制限を加えた頃でしょうか。薄葬令は大規模な墳墓を造ることにたいする民衆の負担軽減が目的とも言われているようです。 
そして、平安京の遷都は794年。大規模な墳墓が造られる時代は終わった筈です。キヨタには今の京都は遷都により開けた地との印象がありました。ですから、平安京以降の天皇陵は市内に3か所ありますが、それ以前の古墳があるとは思っていませんでした。

京都市内の北西部にある「双ヶ岡古墳」。6世紀後半から7世紀にかけてつくられたようです。その名の通り、北から一の丘(標高119m)、二の丘(同102m)、三の丘(同)78mの三つの丘が連なっています。
ただこの古墳は、歴史の教科書に出て来る有力豪族や飛鳥時代の天皇陵とされる古墳とはやや趣が異なり、丘全体が一つの墳墓になっているのではありません。丘の上に直径10~40m程の横穴式の墳墓が23個ある「群集墳」です。これは今治市朝倉の古墳群と同じ形式です。被葬者には当時の有力者もいたのでしょうが、広範囲な階層の人々の集合墓地ののようです。

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 今治市の東南端にある「野々瀬古墳群」。6世紀後半から7世紀後半にかけて造られた円墳群。昭和初期には凡そ100基以上が確認されていましたが、戦後の食糧増産に伴い林が開墾され古墳も破壊されたそうです。現在では20基程の墳丘や石室が残っています。古墳はお墓なので大切に保存されるべきでしょうが、今を生きる人の生活も考えますと、折り合いの付け方は難しいです。

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 その野々瀬古墳群の中で一番大きい「七間塚古墳」。構造や出土品から7世紀前半に造られたとみられています。墳丘の直径は18m、高さは6mです。

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石室の奥行きは9m、高さは2.2mあります。石室の入り口の上に置かれている大きな石に目を惹かれます。それを支える縦に積まれた石組も丁寧に出来上がっています。1,400年の時を経てもなお、揺るぎない姿を見せています。

「五間塚古墳」は二番目に大きく、「王塚」とも呼ばれているそうです。直径は15~16m。
石室への穴を進むと、玄室(石室本体)との境の両脇に縦に袖石が構えられているそうです。
玄室の高さは2.6m、最大幅2m、奥行きは6mもあります。石材は大型の花崗岩が用いられています。

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こちらは大小3つの円墳が肩を寄せ合っています。両親と子供、かな。

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今回、初めて訪ねて来ましたが、朝倉にこのような古墳群があるとは思いもよりませんでした。教科書などに出て来る古墳とは違いますが、古代の人々が死者を祀る思いに違いはないでしょう。今回回った他にも、2か所の古墳群があるようです。それも合わせて、次回はもう少し時間をかけて歩いてみようと思います。


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 「多岐宮古墳」から県道へ戻り南東へ300m程の所にある「樹之本古墳」。前方後円墳ですから時代的には他の朝倉の円墳より1世紀以上は古いはずで、相応の勢力を持った一族の長のお墓かも知れません。ここからの出土された埴輪などは東京国立博物館にも保存されているほどの貴重な物で、特に「漢式獣帯鏡」には「長相思 母常忘 楽未央」という九文字の銘があるそうです。現物を見てみたいと思います。

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 ただ、古墳の規模は小さく、高さもありません。それと知らなければ気づかず通り過ぎでしまうかもしれません。その古墳の上には近隣にあった浄禄寺を開き、水路を作った尼僧が祀られているそうです。

 「樹之本古墳」の直ぐ近くに「一本松(根上り松)古墳」があります。こちらも小さな円墳で、台風で松の根元から銅鏡が出土したことで発見されました。古墳脇には多岐宮などへの道程を示す石碑があり、この松も一里塚として植えられたのか、とも言われているようです。

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 ここから更に3㎞程南東にある一番規模の大きい「野々瀬古墳群」を目指します。
 

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 今治市の南東部の田園地帯の朝倉。ここには5世紀から7世紀にかけて造られた古墳が多数あります。古墳と言っても、教科書などに出て来る巨大な前方後円墳ではなく、直径数メートルほどの小さな円墳ですが、その数300基以上もあったと言われています。その内7か所、50基ほどは見学が可能です。

 日本の古墳時代は3世紀半ばから7世紀末頃までと言われています。その内6世紀末まで九州から東北まで各地に前方後円墳が造られました。その後、円墳や方墳などが造られました。ですから、朝倉の古墳群は、古墳時代の後半期に造られたのでしょう。この頃に造られた古墳で有名なものは奈良の蘇我馬子の墓と言われる「石舞台古墳」や壁画で知られる「高松塚古墳」があります。聖徳太子が摂政になったのが6世紀末、法隆寺もこの頃に建てら新しい時代を迎えよとした頃に、その中心地にある飛鳥に残されたものと規模や内装は違うとは言え、これらと同時期に朝倉でも円墳が造られていたことには一入の感慨があります。

さて、古墳巡りに出発します。全てをぐるっと回っても15~20㎞程ですから、ウォーキングでも一日で回れるでしょう。また朝倉地区の他の見どころもあわせてのサイクリングも楽しめます。

 出発は「ふるさと美術古墳館」がよいでしょう。広い駐車場もありますしレンタサイクルも備えられています。古墳館には朝倉で出土された土器や石器などが展示されるなど、朝倉の歴史を一覧することができます(館内の写真撮影は禁止されています)。公園内には宿泊施設、スポーツ施設なども設けられています。

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奈良時代の井戸の遺構が復元されています。深さは80mもあるそうです。
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園内には日本一、スリルのある滑り台もあります。

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 ここから古墳巡りを始めます。北へ2㎞程の所に「牛神古墳」があります。6世紀後半に造られたと推定されている、直径13m、高さ4mの円墳です。横穴式で内部には2つの埋葬遺構があり、ご夫婦で埋葬されたのかも知れません。土器や装身具などが出土され、墳丘に隣接して展示館があり外部から見ることができます。

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ここから南へ1㎞余り、多岐宮古墳と樹之本古墳へ向かいます(続く)。



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東京の渋谷と神奈川県中部を結ぶ東急田園都市線。その沿線の中でも人気の高い横浜市青葉区は、古代より人の住みやすい土地柄だったのでしょうか、幾つかの古墳が点在しています。その一つが市が尾(イチガオ)横穴古墳群。田園都市線市が尾駅やら徒歩15分ほどの小高い丘の中腹に19基の横穴式の墳墓があります。

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市が尾横穴古墳は6世紀後半から7世紀後半の古墳時代に造られたとみられています。
古墳言えば、前方後円墳が思い浮かびますが、前方後円墳は3世紀から7世紀初めの頃に築かれていました。感覚的には簡素な横穴式の方が、前方後円墳より以前に造られていたように思います。しかし横穴式が造られるようになったのは前方後円墳がより後、5世紀後半の九州北部からです。その後6世紀に山陰山陽、さらには近畿・東海地方に広まり、7世紀初頭には関東から東北南部にまで造られるようになりました。特に大化の改新による薄葬令により大規模な古墳が制限されるようになり一気に広まったようです。埼玉県にある吉見百穴は歴史の教科書にも出てくる横穴式墳墓の代表です。200基以上ある吉見に比べますと規模は小さいですが、全国的に見て19基は決して少ない数ではありません。ここに埋葬されているのは地元の有力な農民だとされています。
墳墓は西向きに造られており、天気の良い日(特に冬)には富士山、更には南アルプスまで望めますから、この地に墳墓を造ることができた、と言うのはその裏付けにもなるでしょう。この辺り一帯は、現在の東京湾(横浜港)から北へ20㎞余りですが、鶴見川さらにはその支流の谷本川が流れる平地も広がり、良好な農耕地だった、と推測できます。
副葬品の金環や勾玉などの装身具や須恵器なども発見されました。

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現地は、墳墓の前の斜面には雑木が多い茂り、眺望が遮られてしまっています。

墳墓の入り口は高さ1m弱。内部を見学することができます。腰をかがめて入って行くと5m先に玄室(被葬者を安置する場所)があります。
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