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 「私は追われるように旅に出た。煤煙に、頬がくろずんでいた。
私はふるさとに帰りついた。
ふるさとに、私の生家はもう無かった。私は、煤けほうけた旅籠屋の西日にくすんだ四畳半へ、四五冊の古雑誌と睡眠薬の風呂敷包みを投げ落とした。」
 これは、坂口安吾の『ふるさとに寄する賛歌』の中の一文。

 そして安吾は「ふるさとは語ることなし」という言葉も残している。ただ、これは二通りに解釈される。
 一つは、ふるさとは良いもので何も言うことはない、という故郷に対する肯定。もう一つは、こんなふるさとには何も言う気も起らない、という故郷に対する否定。全く正反対の解釈がされている。

 安吾のふるさとは新潟。1906(明治39)年に13人兄弟の12番目に生まれた。丙午にうまれだ五男だったことから本名は「炳五」。先祖は「阿賀野川の水が尽きても坂口家の富は尽きぬ」と言われたほどの富豪。ところが祖父が投機に失敗、衆議院議員だった父は政治活動に資金を注ぎ込み炳五が生まれた頃には家は傾きかけていた、という。こともの頃から破天荒な性格で、親せきからは「とてつもなく偉くなるか、とんでもない人間になるか、どちらかだ。」と言われたそうだ。それでも成績は良く、県内随一の旧制中学に進学する。しかし、黒板の字も読めないほどの視力が落ちたが家計費の車で母親に眼鏡すら買ってもらえなかった。それが恥ずかしく学校もサボりがちとなり2年の時に落第する。その当時の教師が「お前なんか炳五という名は勿体ない。自己に暗い奴だからアンゴとなのれ」と黒板に「暗吾」と書かれ、それが筆名の由来と言われる。この当時から反抗的な落伍者への畏敬の念が強かったそうだ。「余は偉大なる落伍者となっていつの日か歴史の中によみがへるであろう」と学校の戸板に彫ったのが、この頃。そんな状況で放校されることを恐れた父や兄は安吾を東京の私立学校に編入させたため、新潟を離れることになった。
 その後の安吾の人生や作家生活については、ここでは書きつくせないほどの流転の連続の果てに、48歳で逝去。その間、ふるさとへは僅かに一度、夏の一月だけ戻ったことがあるようだ。

 もう一人、「ふるさとは…」を残している文筆家がいる。室生犀星。
安吾と同じ日本海に面した北陸の地、金沢に安吾より17年早い1889(明治22)年に私生児として生まれた。その出生からも推し量れる通り犀星の子供の頃は悲壮。不義の子を謝礼付きで引き取る商売をしていた女性の籍に入るも、その女性と内縁関係にあったお寺の住職の跡を継がせるため養子となる。しかし13歳の時、義母に高等小学校を中退させられ裁判所の給仕として勤め始める。その後、地方新聞社を転々とするも金が無くなると養父の所に戻る生活を繰り返しながら22歳で上京。28歳の時、養父が死去、その遺産で詩集二冊を自費出版する。その一冊『抒情小曲集』に収められている『小景異情 その二』の最初の一行が「ふるさとは遠きにありて思ふもの」。

[小景異情ーその二] 
ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや
                     [小景異情ーその二] より
※現代の言葉使いでは不適切な表現もありますが、これは文学なので原文をそのまま転用しました。
 さて犀星にとって、ふるさとは単に遠くにあって思うものだったのだろうか。子どもころの逆境を考えれば帰る所ではないのだろう。都会の夕暮れに故郷を思って涙をこぼすのは、辛い子供の頃を思い出すからか。
しかし。何があってもふるさとは懐かしい。「遠きみやこ」=気持ちの上で遠いみやこ=金沢へ純粋な思いをもって帰りたかったのだろうか。

 犀星の故郷に対する思いは安吾より複雑なのかもしれない。
因みに犀星の文筆名にある「犀」はふるさと金沢を流れる犀川からとったのではないだろうか。養子に行ったお寺はその犀川の畔にある。

ふるさとは、ふるさとを離れることによって初めて生まれる。離れてなお残る人との繋がりがある。そのふるさとに帰ることのできる家がなくなってしまう。それは住む人がいなくなり、建物もなくなってしまうだけではない。家族や親族は住んでいても軋轢によって帰ることができない家もある。ふるさととは、結構、厄介な物かも知れない。安吾にとって、犀星にとってふるさととは、何だったのだろう。
 
 キヨタのふるさとは今治。私にとって今の今治は語ることない場所なのか、遠きみやこなのか。

今日、2月17日は安吾忌。



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東京の大手町で「地方創生展 新居浜への誘い」が開催されました。新居浜の基盤となる別子銅山と太鼓祭りに関する写真と太鼓台1台が展示されていました。
新居浜は亡父の出身地。子供の頃には何度も行っていたのですが、ここ数十年立ち寄っていません。
今回はその展示の内、別子銅山に関するものです。

別子銅山は、1690年に発見されて以来、1973年まで凡そ280年間にわたり銅が産出されました。

今、銅山跡にはテーマパークがあり、当時の様子などを実体感できるようです。


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大正から昭和初期にかけての別子銅山とその周辺の様子が写されていました。
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昭和5年に撮影された「山根競技場」。収容人数はなんと6万人。毎年秋には、別子銅山とその関連企業で働く人々による運動会が開催されていたそうです。
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新居浜沖の瀬戸内海に浮かぶ四阪島には精錬工場がありました。
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今治⇔四阪島⇔新居浜を結んでいた客船。小学生の頃、一度乗ったはずですが、思い起こせません。
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江戸時代の銅山が描かれています。
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亡父の実家は真ん中に突き出した黒島というところでした。絵で見る限り、当時の面影は全くなさそうです。
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 28歳…。年齢は人それぞれ。年齢だけその人の有り様は判断できません。

 今から123年前、28歳の男性が柿を食おうとした時、空気を震わせ鐘の音が響いてきました。生まれ故郷の松山から東京へ向かう旅の途中、飛鳥の地でのことです。

 松山に生まれ自由民権運動に関心を持った正岡子規は、16歳の時に政治家を目指して上京、東大予備門に入学、その5年後に吐血しました。原因は結核。新聞社に勤め文学活動を始め、27歳の時、極めて短時日ですが日清戦争の従軍記者として大陸にも渡りました。その帰国の船中で再び喀血し、松山に戻り療養生活を送りました。この時、漱石と出会い連日、句会を開いていたそうです。それでも中央で活躍したかったのでしょうか、28歳の秋、再び東京を目指し旅に出ました。

その途上、奈良に立ち寄り詠んだ句が「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」。当時、結核は不治の病い。肺を患い再び故郷に戻ることはないであろう秋の旅の空の下。柿は肺を温めるので喘息や結核など肺の病気に良いとも言われます。

(ここからは私の空想)
その柿を食べようと口を開けた時、鐘の音が空気を震わせ子規に伝わって来ました。空気の振動は耳に入った音として聴こえただけではありません。口から気道を通り止んだ肺の奥にまで振動は伝わったのでしょう。肺の病さえなければ、治まりさえすれば。そんな思いもあったのかも知れません。

 上京後、『ホトトギス』を創刊、さらに『歌よみに与ふる書』を発表し短歌の革新運動を推し進め35歳で亡くなりました。

 完全消音装置。その仕組みは伝わってくる音の波動をうち消す波動を発信源に向け正反対の波長を発信すること。現代でもSFの世界にしか存在しませんが、AIやクローンですら実用化されようとしている科学の下では何れ実現する装置かも知れません。それでもお寺の鐘の音だけは人の心の中で響き続けるでしょう。


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 ある日突然、この世の中から全ての音が消えてしまったら…。「まさか、そんなことが」とお思いでしょう。それもそのはず、これは1965年に発表されたSF小説の中での設定です。しかし、この世から音が消えるというのは必ずしも荒唐無稽な空論ではないようで、理論的には万能消音機の開発も不可能ではないようです。

 私たちが普段耳にする音は空気の振動(波)によって伝わってきますので、その波を打ち消す(干渉現象を起こす)ことができれば、音を消すことができます。万能消音機にはマイクとスピーカーが備わっており、スピーカーで捉えて音波と同じ波長の音波をスピーカーから発信できるようになっています。それによって集音する音波の山の部分が谷になる音波、谷の部分が山になる音波を発信します。それによって自分のところへ届く音波の山と谷を無くすことができます。つまり『1-1=0』、『-1+1=0』となり、音波のない真っ平らな世界を作り出すことができます。これが万能消音機の仕組みです。

 ただ、実際の世の中には、複雑多岐に亘る様々な音波が全方向から入り乱れて流れて来ますから、全ての音を消すことはできないでしょう。それでも、特定の音を消す(少なくとも極めて微量な音量に減らす)ことはできるかも知れません。

 この仕組みは、既に船舶の世界では応用され、今ではむしろ当たり前の造船技術になっています。球状船首と呼ばれるものです。今治市内には多くの造船所や漁港がありますので、そこで目にされた方は随分多いと思います。船の下の部分(通常運航している時は海面下に隠れぶ部分)が前に丸く突き出していて、まるで長靴を履いているかのような形になっています。小さな漁船ですと細く刀のように突き出している部分です。
 船が水面を掻き分け進むとき波が生じます。この波は船の抵抗勢力となり燃費や速度を失わせる原因になります。船の本体に波が当たる前に球状船首で敢えて波を起こします。その波が船本体に当たりますと、本体はその波と逆の動きをする波を引き起こし、その結果、波の山と谷が打ち消され燃費低減と速度向上を図ることができます。これは1911年にアメリカ海軍の航空母艦に採用されたのが最初のようです。日本でも多くの戦艦や空母に採用されていました。
 因みに、今は廃止されてしまっていますが関西汽船が阪神~今治・松山~別府を結んでいた客船にも採用されていました。『くれない丸』に乗ったことのある人も多いのではないでしょうか。

 閑話休題。音の世界に戻ります。

 近ごろの世の中は、音に随分煩くなりました。騒音公害が叫ばれて久しく、保育園や公園の子どもの声も騒音。ついにはお寺の鐘の音も近隣住民の方にすれば騒音になってしまったようです。そのため除夜の鐘を止めたり、大晦日の日中にするようになったお寺も出てきたようです。

 やはり野に置け蓮華草、と言いますが、鐘の音にも似つかわしい風情があるのかも知れません。カテドラルの鐘はレンガ造りの町並みの中で、お寺の鐘は山郷や田園の中で響くのが良いのかも知れません。
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 今治市内にある八十八か所の札所の内、五つのお寺は郊外にあります。元日にはご近所のご家族連れが多く参拝に来られ、子どもたちが思い思いに鐘を撞いていました。音は時と場所を越え、いつまでも響いていくことでしょう。例え万能消音機が完成したとしても。

 そんな鐘の音を、今から120年余り前、愛媛から離れた奈良・斑鳩の里にて肺で聞いていた一人の『青年』がおりました。
                                                      (続く)


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2017年の世相を表す今年の漢字は「北」が選ばれました。日本漢字検定協会の一般公募で最多だったそうです。北朝鮮、九州北部豪雨、北海道産ジャガイモの不作、プロ野球の北海道日本ハム、そして競馬馬のキタサンブラックなどから注目されたのが理由。キヨタにとって「北」と言えば、母高の校名の一部。今年は還暦を迎えた同学年の同窓会もあり40年以上ぶりに再会した級友もいましたので、「北」が選ばれたことには感慨もあります。

 それもあって、私の個人的な今年の漢字は「還」。還暦ということもあります。また32に年間、毎夏還ることができた中島トライアスロン大会では夫婦で選手宣誓の大役を果たすことができたのも思い出です。それよりも何より、毎日無事、家に還ることができたということが最大の幸せでしょう。来週末には実家のある今治に還ります。


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