今治城と二条城
 
 愛媛の今治城と京都の二条城。この二つの城に歴史的な繋がりはありません。しかし現在、共通点が一つ。共に城の堀の周りに距離表示のあるランニングコースが設けられています。
十数年前に転勤で京都にいた頃、二条城近くに住んでいましたので週に何度か走っていました。1周1,800mで200m毎に距離表示があります。週末や祝日は観光客の多い場所ですが、夜は人通りも少なく走りやすいコースです。その堀端を十年ぶりくらいに走って来ました。

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松越しに見える櫓も風情はあります。

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大手門改装中

今治城のランニングコースはいつできたのでしょう。キヨタが高校を卒業する当時にはありませんでした(もっとも当時は街中でランニングをする人などいませんでした)。たまに帰郷することはありますが、実家から走りに出る時は、しまなみ海道に出ることが殆どで、反対方向にある今治城のコースを走ったことは1、2度しかありません。ただ、毎年10月に開催される今治シティマラソンは今治城の南側がスタートゴールで、往復合わせ2㎞弱は堀に添ったコースになっています。
この二つのコースを比べると今治城コースの方が好きです。二条城はコースと堀の間に生垣があり、それほど高くはありませんが堀を直接眺めることが難しいです。それに二条城の石垣は低く櫓しか残っていません。今治城は高い石垣の上に聳える天守閣を眺めながら走り続けられます。コースと堀を遮るものもありませんので、海水を引き込んだ堀の水面の煌めきも良い感じです。

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今治シティマラソンのスタートゴール地点です。

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小学生から高校まで、海洋少年団に所属し、この堀でカッター訓練をしていました。

全国各地には堀の残る城郭が多数あります。その堀の周りにランニングコースが設けられている所も少なくはないと思います。代表的なのは皇居(江戸城)でしょうか。市民ランニングの黎明期に皇居のコースが紹介されていましたので、40年ほど前に上京した時に始めて走りました。1周5㎞、16分余りで走れました。今は都心に務める人たちだけでなく多数の人が走っており、ランニングコースのメッカと言っても良いかも知れません。キヨタも仕事帰りや休日に何度も走ったことがあります。桜の季節や、夜、堀の水面に反射するオフィスビルの夜光は綺麗です。今はランナーが多すぎて多少、興ざめしています。
和歌山城の堀の周囲にもランニングコースがあります。ここは20年位前かな、やはり転勤で住んでいた頃、いつも走っていました。距離表示があったかどうかは覚えていません。和歌山城の天守閣は小高い丘の上にあり、コース上からは天守閣を仰ぎ見ることができます。

今は、ランニングも歴史(お城)もブームになっているようです。特に女性にも多くのファンがいるようです。日本各地の周囲にランニングコースのある城郭を地元のグルメ情報などと共に紹介してみるのも面白いかも(サラリーマン引退後にね)。

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4月19日と20日、今治に帰省しました。

さて、今治城は何度か紹介させていただいるので、これまでとは少し別の角度から。
今治城の最大の特徴は内堀が海とつながていることろです。
その海とつながっている水路が↓ 右奥に天守閣が見えます。
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この位置から振り返ると今治港の内港越しに瀬戸内海に浮かぶ大島が望めます。海に近いことがお分かり頂けるかと。
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北側から橋を渡って本丸へ入って行きます。子供の頃はこの坂を自転車で登るのが一苦労だった記憶があるのですが、今見ると大したことはないなぁ、と思ってしまいます。ただ、今は坂の突き当りを右に曲がると門があるのですが、子供の頃は、そのまま真っ直ぐもう少し坂が続いていたのではないか、と思います。
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天守閣や櫓が再建されるまでは石垣しか残っていませんでした。
本丸には吹揚(フキアゲ)神社があり、子供の頃は、今治城というより「吹揚さん」と呼び馴染んでいました。
吹揚神社は近隣では初詣客の最も多い神社だったと思います。
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塀も再建され、狭間(サマ)と呼ばれる穴も再現されています。狭間は敵から姿を隠してこの窓から矢を放ったり鉄砲を撃ったりしていたのですね。
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左の正方形が鉄砲用、右の縦長が弓用でしょうね。
狭間からはこんな風に見えるのですね。これで相手に命中させられたのでしょうか。
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なお、一番上の写真は南東の方向から見た城跡です。かっては手前の堀端に手漕ぎボート乗り場がありました。

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2013.10.05 彦根城
 日本各地にはたくさんの城跡があり壮麗な天守閣も建っています。ただ多くは昭和や平成になってコンクリートなどで再建された物です。江戸時代以前に建てられたお城の天守閣の殆どは明治維新後の廃棄や戦争の空襲などで破壊されたり、炎上してしまいました。その中でも建てられた当時のまま残っている天守閣が現存天守と呼ばれています。さて、日本全国で現存天守、その数は?

 今回訪ねたのは、その現存天守の中の一つ、彦根城です。夏にトライアスロンチームの合宿が彦根で行われた時、メンバーと朝の散歩に行きました。

井伊家の居城でも知られる彦根城も、明治になり解体目前だったところ、明治天皇が通りかかり保存するように言われたと言う説もあります。徳川家康の命により1604年に着工。天守は大津城から移築され2年ほどで完成したそうです。城郭全体が完成するのは1622年と言われています。

その天守閣の遠景。手前のグランドのライトが目障りなのですが、ご辛抱を。
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天守閣へは濠を渡り、石段、坂道を上ります。
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お城などの屋根には三角形や湾曲した飾り(?)が設けられています。これを『破風(はふ)』と呼びます。その形によって、呼び方が異なります。天守閣1層の屋根の「へ」の字型の破風は「切り妻破風」。その上にある瓦に載っているのは「入母屋破風」。
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2層左側は、入母屋破風に似ていますが、屋根には載っていません。切り妻破風に庇がついている造りになっていて、現存天守の中では彦根城だけに見られる特徴だそうです。2層と3層の屋根の湾曲しているところは「唐破風」と呼ばれます。
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釣鐘型の窓は「花頭窓」と呼ばれます。銀閣寺とかお寺のお堂で良く見かけます。
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真横から見ると、2層の破風が斜め上向きになっているのが分かります。他ではあまり見かけません。
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本丸から南西方向に琵琶湖を望みます。
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北西方向の琵琶湖の眺め。昭和歌謡の「青春の城下町」(アラ還より上の世代の方しかご存知ないと思いますが)、その中に出てくる場面。城山に上れば見える君の家を、窓に灯りが燈るまで見ていたのは、こんな風景だったのでしょうか。
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城郭内や城山の麓には櫓や庭園が残されていますが、また何れ時間を見つけて来てみたいと思います。

さて、冒頭の、現存天守の数。今どきのブームやクイズ番組などでご存知の方も多いでしょうが、日本全国で12城あります。この内8つは訪ねたことがあります。残り4つ、遠くない内に行ってみたいと思っています。現存12天守は弘前(未)、松本、丸岡(未)、犬山(未)、彦根、姫路、松江、備中松山(未)、丸亀、松山、宇和島、高知です(「未」はまだ行ってない所)。

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 「今、今治城の石垣の下のお堀との間に犬走りがありましたが、とても珍しいのですよ。」とタクシーの運転手さんに言われました。確かに今、車窓の右手に御城が見えていましたが、既に石垣が見える所は通り過ぎていて、直接見ることができませんでした。もう少し早く言ってくれればいいのに…。
 キヨタは今治出身なので知っていましたが、同乗していた方々は犬走りと言うのを知らなかったので、とても残念がっていました。なので、今更ながら写真だけでも。
今治城犬走り1 今治城犬走り2 

今治城犬走り3 今治城犬走り4
拡大していただくとお分かり頂けると思いますが、お堀と石垣との間に幅2m程の平らな所があり草木が生えています。犬が走る幅があるので犬走りと呼ばれているそうです。
 普通、お城にはこのような犬走りなどなく、堀から直接石垣が出ています。犬走りがあると、堀を渡って来た敵兵の取り付け場になり、城を守る側からは不利なのです。ただ、今治城は別名「吹上(フキアゲ)城と呼ばれ、海岸に面し、砂が吹き上げるような土地に造られたとのことで、弱かった地盤を補強するために石垣の下に土台が設けられたそうです。全国でも、このような造りは珍しいそうです。因みに、堀は瀬戸内海と直接繋がっていて、潮の満ち引きに合わせ水面が上下します。堀でで泳いでいる魚は海水魚ですが、釣りは禁止されているようです。

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2012.08.26 長浜城
 日にちは前後しますが、Big Lake合宿二日目の8月12日。朝、琵琶湖でスイム練習後、他のメンバーはバイクの練習へ。その間、キヨタはサボって城下町観光。

 先ずは、豊臣秀吉の出世城と言われ、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点である長浜城の天守閣に登城。
 1573年に浅井長政が滅亡した後、滋賀県北部の湖北地方を支配したのが秀吉。姉川の合戦や小谷城攻めで功績のあった秀吉が浅井氏の領国の大半を与えられ、最初は小谷城に入りました。その翌年に湖岸に面した現在の場所(当時の地名は今浜)に築城を開始しました。これは琵琶湖の舟運を重視したことが理由と考えられています。そして1575年に城が完成、地名を長浜に改めて1582年まで在城しました。
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天守閣は再建されたもので中の階段などは鉄筋コンクリート造りです。当時の天守閣からは少し北側に建てられているそうです。当時の城に関する絵図や古文書が殆ど伝来されておらず、1983年に再建された天守閣は当時の物ではなく、当時の城郭を想定して建築されたとのことです。
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天守閣最上階の回廊からは、琵琶湖をはじめ、姉川や賤ヶ岳合戦場、小谷城、関ケ原、更には石田三成の居城だった佐和山城などを望むことができます。琵琶湖の水運を利用すれば陸上よりも便利に大津に出ることもでき、そこから京都は目と鼻の先。戦国時代にはかなり重要な場所にあったこことを感じさせられます。
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 秀吉後は、1582年の清州会議で柴田勝家に譲られ、勝家の甥である勝豊が入城しました。しかしその年の12月に、秀吉は勝豊を攻め翌年4月に行われた賤ヶ岳での柴田勝家との合戦では長浜城を軍事拠点としました。
 1685年から山内一豊が城主となりなしたが、その移封後は廃れ、湖北地方は石田三成の支配下になって行きました。
 1606年には徳川家康の異母弟の内藤信成が城主となり大改築が行われましたが、1615年に城主となっていた信成の子、信正が摂津高槻城に移封によって、湖北支配の役割は彦根城に移り、石垣や櫓材は彦根城などに運ばれ廃城となりました。

また、長浜は京都と北陸を結ぶ「北国街道」が通っており、旧街道沿いにはその名残があります。市内には「黒壁スクエァ」と呼ばれる地区や、戦国時代をテーマにした展示館があります。
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この建物は「舟板べい」と呼ばれ、木造の舟の板材が利用されています。
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写真では分かりづらいですが、道が少し曲がっていて、道に面する建物が一軒ずつ少し凸凹しています。これは武者隠しと言って、敵に追われたり迎え撃つときに武士が建物の凹みに隠れて待ち伏せするために敢えてそのような並びになっているのだそうです。
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長浜城公園内でラン練習するBig Lakeメンバー
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 城下町を見物した後は、長浜のもう一つの見どころ、「長浜鉄道スクエァ」に向かいました(続く)。

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