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2018.06.01 丸亀城
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全国で12か所しかない現存天守のある丸亀城。安土桃山時代の1597年に生駒氏によって標高66mの亀山に築かれた平山城。天守閣のある山頂まで4段に積上げられた石垣の高さは60m。総高では日本一です。ただ1615年の徳川幕府による一国一城令により讃岐の国は高松城を残し、丸亀城は廃城になりました。
 その後、1645年に山崎氏が幕府の許可を得て再築しました。『石の城』とも呼ばれる日本一高い石垣もこの時に積み上げられたようです。現存の天守閣が完成したのは1660年。この時の藩主は京極高和で、江戸時代が終わるまで京極家が藩主であり続けました。
 明治時以降、兵営が置かれたり櫓などが取り壊されるなどし、1950年には天守閣の解体修理が完成しました。その後も石垣の修理工事も何度か行われ現在に至っています。

玄関先御門
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ハバキ石垣またはサヤ石垣と呼ばれます。石垣が膨らんだ箇所を崩れないように外側から抑えています。丸亀城初期の山崎氏の頃に築かれたそうです。
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この石垣は「打ち込みハギ」と呼ばれる丸亀城の主な石垣の積み方です。各段が一列に配列されている(横目地が通る)積み方です。
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高石垣。20m以上の高さがあり、隅角は算木(サンギ)積みと呼ばれます。長方形の石を用い、長い面と短い面を交互に組み合わせ強度を高め美しい勾配を持った高石垣を築くことができます。
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ただの石垣、と思われるかもしれませんが、少しずつ段差を付けたり凹凸があったり狭間を設けた塀があれば実戦での防御にも大いに役立ったのだろう、と思います。
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石垣の頂には、その石垣の大きさに比べて小ぶりな天守閣が建っています。高さ15mは現存天守の中で一番小さいですが、唐風破や千鳥風破が施された美しい天守閣です。
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本丸からの眺め。天気の良い日にまた訪ねてきたいと思います。
お城の東側には讃岐富士と呼ばれる飯野山が望めます。
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金毘羅さんのある象頭山。十返舎一九は丸亀に上陸し金毘羅詣でをしたそうです。
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北側には丸亀市街を見おろし、その先には瀬戸内海が広がります。
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長く藩主の座にあった京極家の家紋は「平四ツ目」。
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顔抜きパネル愛好者の方にもお奨め。
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瀬戸内海の芸予諸島の中の小さな島にある古城跡。とは言え、天守閣や城郭の跡どころか石垣さえもありません。しかし、目の前は瀬との急流。守るに安く、攻めるに難い城だったでしょう。それ以上に、海を往き来する水先案内人として、そして時には海賊として自在に船を操る水軍の拠点だったろうと思われます。

 岩城島にある小高い丘。ここに城跡があったと知っていて上った訳ではありません。頂には八幡神社があると聞いて、朝イチの散歩に出かけました。

 石段の上り口には鳥居があり、上りきると社がありました。ただ周りは木々に囲まれて海の眺望はそれほど良くありません。

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 境内を一回りすると、「亀山城址」の案内板が立っていました。「あぁ、ここは昔、お城があったのか。」

 案内板によりますと、亀山城の築城は1392年。この年は南北朝が統一された年ですが、南朝最後の天皇が後亀山天皇。特に所縁はないようです。城主として村上義元他、村上姓の4人が挙げられています芸予諸島で村上と言えば村上水軍。1349年頃には既に岩城島からほど近い弓削島で海上警護の任に当たっていたと言われますから、この村上4人も当然、村上水軍の一族でしょう。冒頭にご紹介した、城の位置取りでもよく分かります。

 社殿のある場所が主郭だったそうですが、当時のことですから壮大な天守閣などはなかったはず。主郭を挟んで南北に小さな郭があったようですが、狭い敷地ですから、本宅と離れ見たいな感じでしょうか。

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社の裏側には長い歴史を見続けたであろう樹木が根を張っています。

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社殿への石段だけでなく、坂を上って頂きにでることができます。

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 丘の下の南端、海に面し岩礁ビットがあり、水軍の船の係留地跡とも、また鳥居用の柱穴であったとも言われているそうです。

 木々の合間からも、その流れの激しさが分かる川幅ほどもない海峡は、操船を鍛錬し、水軍として活動するには絶好の場所だったのでしょう。今から700年以上も前、当時の城主はどのような思いで海を見つめ、家臣や島の人たちの生活を守っていたのでしょうか。

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今治城と二条城
 
 愛媛の今治城と京都の二条城。この二つの城に歴史的な繋がりはありません。しかし現在、共通点が一つ。共に城の堀の周りに距離表示のあるランニングコースが設けられています。
十数年前に転勤で京都にいた頃、二条城近くに住んでいましたので週に何度か走っていました。1周1,800mで200m毎に距離表示があります。週末や祝日は観光客の多い場所ですが、夜は人通りも少なく走りやすいコースです。その堀端を十年ぶりくらいに走って来ました。

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松越しに見える櫓も風情はあります。

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大手門改装中

今治城のランニングコースはいつできたのでしょう。キヨタが高校を卒業する当時にはありませんでした(もっとも当時は街中でランニングをする人などいませんでした)。たまに帰郷することはありますが、実家から走りに出る時は、しまなみ海道に出ることが殆どで、反対方向にある今治城のコースを走ったことは1、2度しかありません。ただ、毎年10月に開催される今治シティマラソンは今治城の南側がスタートゴールで、往復合わせ2㎞弱は堀に添ったコースになっています。
この二つのコースを比べると今治城コースの方が好きです。二条城はコースと堀の間に生垣があり、それほど高くはありませんが堀を直接眺めることが難しいです。それに二条城の石垣は低く櫓しか残っていません。今治城は高い石垣の上に聳える天守閣を眺めながら走り続けられます。コースと堀を遮るものもありませんので、海水を引き込んだ堀の水面の煌めきも良い感じです。

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今治シティマラソンのスタートゴール地点です。

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小学生から高校まで、海洋少年団に所属し、この堀でカッター訓練をしていました。

全国各地には堀の残る城郭が多数あります。その堀の周りにランニングコースが設けられている所も少なくはないと思います。代表的なのは皇居(江戸城)でしょうか。市民ランニングの黎明期に皇居のコースが紹介されていましたので、40年ほど前に上京した時に始めて走りました。1周5㎞、16分余りで走れました。今は都心に務める人たちだけでなく多数の人が走っており、ランニングコースのメッカと言っても良いかも知れません。キヨタも仕事帰りや休日に何度も走ったことがあります。桜の季節や、夜、堀の水面に反射するオフィスビルの夜光は綺麗です。今はランナーが多すぎて多少、興ざめしています。
和歌山城の堀の周囲にもランニングコースがあります。ここは20年位前かな、やはり転勤で住んでいた頃、いつも走っていました。距離表示があったかどうかは覚えていません。和歌山城の天守閣は小高い丘の上にあり、コース上からは天守閣を仰ぎ見ることができます。

今は、ランニングも歴史(お城)もブームになっているようです。特に女性にも多くのファンがいるようです。日本各地の周囲にランニングコースのある城郭を地元のグルメ情報などと共に紹介してみるのも面白いかも(サラリーマン引退後にね)。

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4月19日と20日、今治に帰省しました。

さて、今治城は何度か紹介させていただいるので、これまでとは少し別の角度から。
今治城の最大の特徴は内堀が海とつながていることろです。
その海とつながっている水路が↓ 右奥に天守閣が見えます。
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この位置から振り返ると今治港の内港越しに瀬戸内海に浮かぶ大島が望めます。海に近いことがお分かり頂けるかと。
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北側から橋を渡って本丸へ入って行きます。子供の頃はこの坂を自転車で登るのが一苦労だった記憶があるのですが、今見ると大したことはないなぁ、と思ってしまいます。ただ、今は坂の突き当りを右に曲がると門があるのですが、子供の頃は、そのまま真っ直ぐもう少し坂が続いていたのではないか、と思います。
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天守閣や櫓が再建されるまでは石垣しか残っていませんでした。
本丸には吹揚(フキアゲ)神社があり、子供の頃は、今治城というより「吹揚さん」と呼び馴染んでいました。
吹揚神社は近隣では初詣客の最も多い神社だったと思います。
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塀も再建され、狭間(サマ)と呼ばれる穴も再現されています。狭間は敵から姿を隠してこの窓から矢を放ったり鉄砲を撃ったりしていたのですね。
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左の正方形が鉄砲用、右の縦長が弓用でしょうね。
狭間からはこんな風に見えるのですね。これで相手に命中させられたのでしょうか。
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なお、一番上の写真は南東の方向から見た城跡です。かっては手前の堀端に手漕ぎボート乗り場がありました。

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2013.10.05 彦根城
 日本各地にはたくさんの城跡があり壮麗な天守閣も建っています。ただ多くは昭和や平成になってコンクリートなどで再建された物です。江戸時代以前に建てられたお城の天守閣の殆どは明治維新後の廃棄や戦争の空襲などで破壊されたり、炎上してしまいました。その中でも建てられた当時のまま残っている天守閣が現存天守と呼ばれています。さて、日本全国で現存天守、その数は?

 今回訪ねたのは、その現存天守の中の一つ、彦根城です。夏にトライアスロンチームの合宿が彦根で行われた時、メンバーと朝の散歩に行きました。

井伊家の居城でも知られる彦根城も、明治になり解体目前だったところ、明治天皇が通りかかり保存するように言われたと言う説もあります。徳川家康の命により1604年に着工。天守は大津城から移築され2年ほどで完成したそうです。城郭全体が完成するのは1622年と言われています。

その天守閣の遠景。手前のグランドのライトが目障りなのですが、ご辛抱を。
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天守閣へは濠を渡り、石段、坂道を上ります。
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お城などの屋根には三角形や湾曲した飾り(?)が設けられています。これを『破風(はふ)』と呼びます。その形によって、呼び方が異なります。天守閣1層の屋根の「へ」の字型の破風は「切り妻破風」。その上にある瓦に載っているのは「入母屋破風」。
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2層左側は、入母屋破風に似ていますが、屋根には載っていません。切り妻破風に庇がついている造りになっていて、現存天守の中では彦根城だけに見られる特徴だそうです。2層と3層の屋根の湾曲しているところは「唐破風」と呼ばれます。
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釣鐘型の窓は「花頭窓」と呼ばれます。銀閣寺とかお寺のお堂で良く見かけます。
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真横から見ると、2層の破風が斜め上向きになっているのが分かります。他ではあまり見かけません。
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本丸から南西方向に琵琶湖を望みます。
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北西方向の琵琶湖の眺め。昭和歌謡の「青春の城下町」(アラ還より上の世代の方しかご存知ないと思いますが)、その中に出てくる場面。城山に上れば見える君の家を、窓に灯りが燈るまで見ていたのは、こんな風景だったのでしょうか。
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城郭内や城山の麓には櫓や庭園が残されていますが、また何れ時間を見つけて来てみたいと思います。

さて、冒頭の、現存天守の数。今どきのブームやクイズ番組などでご存知の方も多いでしょうが、日本全国で12城あります。この内8つは訪ねたことがあります。残り4つ、遠くない内に行ってみたいと思っています。現存12天守は弘前(未)、松本、丸岡(未)、犬山(未)、彦根、姫路、松江、備中松山(未)、丸亀、松山、宇和島、高知です(「未」はまだ行ってない所)。

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