ラヂウム温泉(今治市)

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終戦直後、今から凡そ70年近く前、2階への階段を上りドアの隙間から蠱惑の世界を覗いていた女学生。そこでは大人の男女がダンスを踊っていました。ドキドキしながら大人の世界を垣間見たのでしょうか。

 今治市の中心地にあるラヂウム温泉。
大正10(1921)年ころに建設着手された温泉は6年後、昭和2(1927)年に開業されました。

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昭和20年の空襲で今治市街地は殆ど焼けつくされてしまいましたが、この温泉の建物は生き残りました。一説によりますと、米軍はキリスト教系の建物には直接爆弾を投下しない、と言う暗黙の規定があり、尖塔のあるこの建物は教会に見えたので難を逃れた、とも言われています。ただ真偽のほどは定かではありません。
戦後は、1階が浴場で2階にはダンスホールがありました。そのダンスホールへ通じる階段が当時の女学生にとって大人への階段だったのかも知れません。

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昭和42(1967)年には、3階を増築し『ホテル青雲閣』開業しました。昭和63年(1988)年にサウナやスチームバスなどが採り入れて尖塔のある銭湯になりました。この頃、キヨタは小学生から大学生の頃。しばしば前を通りましたが、銭湯に入ったことはありませんでした。戦後の女学生と違い、何となく立ち寄りがたい、外から見るだけ、と言う感じもありました。どちらかと言えば、銭湯よりホテルのイメージの方が強かったように覚えています。それと、近隣は市内の繁華街。世間知らずの子どもが日暮れ後に近づける場所でもなかったように思います。

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そして平成3(1881)年に2階のダンスホールはクラシックバレー教室として使用されるようになりました。

 そんな歴史のある温泉も、その後の時代の移り変わりに伴い、ついに平成26年(2014)年に90年に及んだ先頭の歴史の幕を降ろしました。現在、国の登録有形文化財に答申され、建物の保存が図られています。

 今治の町の様子も変わりつつあります。そのような状況で今後、どのような形で保存されるのか、或いは補強をして営業が再開されるのか。見守っていたい、と思います。

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当初は、女湯が右、男湯が左だったそうですが、女湯脇に道路が出来てから入れ替わったそうです。

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回数券。

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銭湯に欠かせない黄色い風呂桶と牛乳石鹸(良い石鹸)。

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電気マッサージ。1回10円。

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脱衣所を経て、銭湯内へ。

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ドライとスチーム両方のサウナがあります。

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狭いながらも露天風呂もあります。

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下駄箱脇の獅子脅し。

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建物内の傷みも。

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脱衣所の天井は八角形。

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ホテルの一室。一度は泊まってみたかったです。


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猿飛佐助の産みの母の生まれた地(今治市)

 今、NHKで放映されている大河ドラマ『真田丸』。その主人公でもある真田幸村と言えば「真田十勇士」。その十勇士の中でも最も知られているのは「猿飛佐助」でしょう。ドラマの中では藤井隆さんが演じておられます。その佐助は、これまでにも数多くの小説、映画その他で描かれており、現代でも語り継がれている日本の忍者の代表格でしょう。ですから佐助については改めでご紹介することもないでしょうが、佐助が生まれ育ったのは信州で、最後の活躍の場となったのは大坂。ところが、その佐助の像が、生涯では何の関わりもないように思える今治市に2体あります。決してドラマの人気にあやかったものではありません。では何故、佐助像が今治に?

先ず一体はJR今治駅前のバスロータリーの脇にあります。

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 そしてもう一体は、佐助の生みの母の墓所のあるお寺にあります。

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 佐助については改めてご紹介するまでもないでしょうが、その実態については架空説と実在説があります。
 
実在説としては、「三雲佐助賢春」、伊賀の「上月佐助」、また『清正実記』に書かれている「猿飛仁助」をモデルにしたもの、というものがあります。

一方、架空説としては、『立川(タツカワ)』文庫』によって創造されたというものです。大坂を中心に江戸時代から語られていた佐助は、この『立川文庫』によって全国区になったのではないでしょうか。この『立川文庫』の創始者が今治出身の女性なのです。

 山田敬。明治時代の今治の大きな廻船問屋の女主人でした。働き者の養子の旦那、そして子ども5人に囲まれ、そのままでしたら順風な生涯を終えたのでしょう。ところが明治29年、43歳の時、旅の講釈師「玉田玉秀斎」と駆け落ちをして大阪にでました。当時の不倫は姦通罪。今どきのスキャンダルですら比べ物にならない罪。結果、この廻船問屋は倒産、一族も離散してしまいます。小学校の教員だった長男の阿鉄(オテツ)も離職を余儀なくされます。逃げるように大阪に来た敬は、生計を立てるために阿鉄の助けを受けて玉秀斎の講談を書き下ろした本を貸本屋に卸していました。その書き下ろし本が人気を博し次々と出版を重ねて行きました。
ところがいつの世も人の心は移ろいやすい。明治の終わり頃には貸本屋の講談本の人気も廃れ、立川文庫の講談本も置かれなくなりました。そんな時、意気消沈する玉秀斎を敬は叱咤激励します。そして明治44年、支援をしてくれる出版社が見つかり『立川文庫』が生まれます。
 世は明治から大正へ。新しいネタを探し続けていた阿鉄はある時、他愛のない世間話の中で出た『西遊記』で新しい人物像に思いつきました。「空を飛ぶ猿、孫悟空。その孫悟空が丁髷を結ったら面白い」。立川文庫四十作記念作品『猿飛佐助』が誕生しました。

 勝ち目のない徳川に立ち向かった真田。その家臣として働き消えて行った佐助。その姿は共感を呼び、瞬く間に百万部を突破したそうです。

 その売れ行きを見ながら、敬は大正9年66歳で他界します。山田家累代の墓所は、今治駅から南西へ歩いて10分足らず。少し坂道を上った小さなお寺の境内にあります。

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こちらは今治駅前の像。
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こちらは山田家の墓のある「観音寺」の境内の像。
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同じ猿飛佐助の像でも表情や躍動感が違います。
駅前の像は青年時代の勢い、境内の像は年齢を重ねた老獪さも感じます。


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尾道紹介の展示会(東京都千代田区)

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 大学進学のため、今治を出たのは18の春。その直前に、両親と妹との4人家族で出かけた尾道への日帰り旅行。千光寺公園でお花見をしました。船舶関係に携わっていた父の仕事の関係で尾道(向島)には何度も遊びに行っていました。それでも、その日帰り旅行が家族4人だけでの最後の旅になるかな、との予感がありました。私も妹も結婚しそれぞれの家族も含めての旅行は1度だけありましたが、その予感通り、4人だけの旅はやはりそれが最後でした。

 そんな思い入れのある尾道を紹介する展示会が都内で開催されています。勤務先の最寄り駅近くで帰路の途中で見かけ立ち寄りました。ビルの1階ロビーの一角でしたが、多くのパネルや映像によって尾道が紹介されていました。現在だけでなく、中世以降の文化財 や史跡の紹介もされていました。勿論、しまなみ海道も。大三島での村上海賊に関する講演会イベント(10月23日)のチラシも置かれていました。今治市も、都内に支店のある県下の企業と連携してこのようなイベントでPRできる機会があれば良いですね。

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努力は必ず報われるとは限りません。しかし、努力をしないと何も始まりません。いくつになっても努力を続けステップアップしていたいと思っています。

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