2011.03.31 裁判員裁判
愛用の自転車が盗まれた、としよう。懸命に探して、ある家の庭に停められている自転車を発見。間違いなく自分の自転車だ。さて、その時、あなたはどうするか。

 3月30日、覚せい剤密輸事件に関し、裁判員裁判の一審で無罪だった被告が、二審の高裁で逆転有罪判決が出された。しかも、高裁で量刑まで決められたのは裁判員裁判では全国初のことだった。
 3月31日付朝刊。朝日新聞はサブタイトルで『1審の証拠評価は誤り』として「三審制をとっている以上、控訴審や上告審で結論が変わることは当然あり得る。」としつつも「裁判員の結論が簡単に変更されることが続けば、市民の間で批判が高まることも予想される」。「裁判員制度を導入した意義は、…、市民感覚を反映させることだ」と続いている。
 読売新聞は『裁判員の無罪覆す』の見出しで「裁判員の判断が一切、判決に反映されない可能性が出てきた」。「裁判員制度の趣旨から見て、高裁の判断が妥当かどうか、最高裁で改めて問われることになる」。と書かれている。

 両誌とも、裁判(法律的判断)に市民感覚を反映させることは重要である、との認識は共通しているようだ。確かにそれに異論はない。ただ、気をつけなければならないことは、朝日新聞にもあるとおり、日本の裁判制度は三審制がとられていること。

 『事実』は、見る人や方向によっては必ずしも同じように見えるとは限らない。だから三審制がとられている。法律のプロですら1回の裁判だけでは正しい判断が出来ないこともありえるから。現に、裁判員裁判だけに限らず、1審、2審、それと3審で、それぞれ異なる判決が言い渡されることは、少ないとは言え今までも何度もあった。
 ところが今回に関して両誌からは、基本的には裁判員の結論を尊重すべきとの意図が読み取れる。それでは三審制を採っている意味がない。
 まして、今回の1審においても、裁判員がどのように判断したか(全員一致だったのか、多数決だったのか)は裁判員制度のうえで明らかにされていない。また、選ばれた裁判員が別の人たちだったら同じ判決だったのかは検証しようがない。
 だから裁判員裁判の結果が全てとは思えない。特に朝日新聞の「市民の間で批判が高まることも予想される」とまで書いてしまうのは、むしろ市民感覚をミスリードしかねない。正しくは、裁判員裁判であってもその結論が全てではなく、様々な見方や考え方があり、その判決が別の裁判では正反対の結論が出る可能性もある、ということを呼びかけるべき、と考える。それによって、裁判員として参加した市民、またその判決を知った市民の感覚が、法律に照らしてどうなのか、を判断する。それこそを裁判員制度の目的にしなければならない。そして、法律が世情に合わない、と判断されれば法律を改正すべき方向へ動いていかなければならない。

 なお、今回の判決に対し両誌が取材した一審の裁判員のコメントは対照的だった。朝日新聞では「裁判は三審制なので控訴審でひっくり返ることがあってもいい。より精度が高まったのだと理解した。」とのコメントが載せられた。読売新聞では「法と証拠で判断しようとした苦心した経験を踏まえると、控訴審の結論には違和感もある。」とのコメントを載せた。法律行為を市民感覚で判断するのは、簡単なことではない。

 さて、冒頭の場面に戻ろう。
 盗まれた自分の自転車だ。だから、その場で自分で自転車を取り戻しても良いのだ。そう思って、他人の庭に入った途端、あなたは住居侵入の罪で逮捕さる可能性があります(刑法第130条)。
 では、盗まれた自分の自転車がゴミ置き場に放置されていたとしよう。これなら持って帰っても良いだろう。いえ、ダメです。占有離脱物横領で逮捕される可能性があります(刑法第254条)。盗まれた自転車が、盗んだ人から善意の第三者へ売却されている可能性があるからです。
 自分が持っていたのが明らかであるにも拘わらず、それを取り戻す為には、警察へ届けるとか、裁判所を通じてて然るべき法的手続きを執らなければならない。法律の世界では自力救済は認められていない。かように法律の世界と言うものは、必ずしも市民感覚とは一致しないこともある。
 
 
 
Secret

TrackBackURL
→http://kiyoandoyoko.blog137.fc2.com/tb.php/105-8763315f