関 行男

 愛媛県西条市。北は瀬戸内海に面し、南は石鎚山を仰ぎ見る、愛媛県東部にある地方都市である。江戸時代は松平家の陣屋のあった城下町。そんな穏やかな町で一人暮らしをしていた46歳の女性の人生が、太平洋戦争末期の1944年10月25日を境に、一変する。ひっそりと暮らしていた家に、全国各地から人が訪ねて来るようになった。普段会うこともない親戚から見知らぬ人まで。そして彼女の狭い家は供花や香典などで溢れかえったという。彼女自身には思いもよらぬ、23歳にして新婚僅か6ヶ月の我が息子の功績によって。

 「戦闘第三〇一飛行隊分隊長 海軍大尉 関 行男」。これが彼女の人生が変わる前日までの息子の肩書きと名前だ。大尉というと軍隊の位としては重そうに思えるのだが、その割には分隊長というのは軽いのではないか、という気がしないでもない。果たして、その日から肩書きは二階級特進し少佐に。しかも「軍神」という誉れまで付いた。その理由は、彼に1944年10月19日に与えられた任務を同月25日に遂行された(とされる)からだ。その任務とは…。
 250キロ爆弾を装着した戦闘機の編隊を指揮し、アメリカ軍をめがけて体当たり攻撃を決行すること。即ち下士官4名を率いて神風特別攻撃隊の第一陣(敷島隊)を指揮し、自らの命と引き換えにアメリカ軍に打撃を与えること、だった。今から見れば、既に戦況は極めて悪化し日本に勝ち目はなくなっていた時期。軍上層部の自暴自棄としか思えないような暴挙。それでも関行男以降、終戦までの10ヶ月の間に多くの特攻隊が飛び立った。昨今、自爆テロが世界各地で発生しているが、日本も僅か66年前に同じように、自らの命と引き換えに成果を求めた数多くの20歳にも満たない少年兵も含めた特攻隊員がいた。自爆テロと違うとすれば、被害者に一般市民を巻き込んでいないことと、成功率の低いことだろうか。彼らの命は悉く空しく沖縄の海に沈んだ。

 ただ、戦争を知らない私が、戦争について何を表現しても、それはそれこそ成りすましであり、声色を使っていることに他ならない。だから私が関母子で思うことは、戦争の悲惨さや特攻隊員の思いではない。

 関サカエさん。「軍神の母」と讃えられて僅か1年。彼女の境遇は、世間によって再び激変させられる。敗戦によって特攻隊員やその遺族を見る世間の目が変わった。犯罪者のような扱いを受け、住んでいる家からも、文字通り石もて追われ出て行かざるをえなかった。その後彼女は3年間、知人宅の物置にかくまってもらった、という。軍神の母として当時大卒銀行員の凡そ9年分に相当する弔慰金を貰いながらも息子の墓さえも作ることもできず、息子が逝って9年後に他界した。
 
 私が彼女で思うことは、今も変わらぬ、世間の人が自身の掌をたった1日でいとも簡単に反してしまうことの恐ろしさ、である。

   (参考:「指揮官たちの特攻」 城山三郎 著 )

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>コメントありがとうございます。
 本文にも書きましたが、私自身には戦争体験がありません。従いまして貴殿のように当時の経験をお持ちの方から、その時の特攻隊員の気持ちを教えていただけることを有難く思います。
 自爆テロも、テロリストの理論として、それはそれで祖国や自分の信じる者の為に行われる行為だとばかり思っていました=勿論、その理論に同調できるものではありませんが。
 既に敗戦濃厚となった時期での特攻攻撃の開始、「何故、自分が選ばれたのか。」と悩みながら突撃した隊員、「どうして爆弾をだいて死ななければならないのですか。」と泣いた少年兵、「きさまらの、代わりは一銭五厘で、いくらでも来る。」といわれた人間魚雷の要員、「こんな作戦はなっとらん。こんなの戦争ではない。どうか特攻をやめさせてくれ。」と部下に言い残して散った少佐、「おれが死んでも、戦局は変わらんのだがなあ。」と言い残した大尉、「ああいう戦局で、上から命令された以上は…。」と振り返る元隊員。そして何より、昭和20年8月15日の午後4時!=即ち終戦後に沖縄に向け飛び立った特攻隊11機に機乗し帰還することのなかった兵士達。
 そんな有名無名の数多くの人たちに恥ずかしくない世界が作れているのだろうかとも思います。

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努力は必ず報われるとは限りません。しかし、努力をしないと何も始まりません。いくつになっても努力を続けステップアップしていたいと思っています。

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