日本語には、文字として漢字、ひらがな、カタカナがあり、昨今ではアルファベット、ローマ字も日本語(文字)として汎用されていると思われます。同じこと(対象物や思いなど)を表現するときでも、それぞれどの文字を使うかによって、伝える側に意図があり、受け取る側の印象も違ってくると思われます。近頃は子供の名前や商品、店舗名などに漢字の当て字が使われているのを多く見かけます。奇を衒っただけのものもあれば、良く考えたなと思われることもあります。
 文字(文章ではなく、文字単体として)は、意思伝達の手段としての道具と言う面と、思想を伝える面があるように思います。アルファベットは、その成り立ちは分かりませんが、意思伝達の手段の面しか感じられません。一方、漢字はその成り立ちから単なる意思伝達手段だけでなく、一文字一文字にそれぞれの思想があるように感じます。ひらがなやカタカナはそれを簡素化したものでしょうが、アルファベットに近いように思われます。

 日本語で文章を書く時、それぞれを使い分けていますが、文字は意味だけでなく「見た目」も大切なような気がしています。同じことを、漢字、ひらがな、カタカナで書き分けた時、固有名詞は別にしてカタカナには無機質で冷たい印象を受けます。漢字やひらがなで書けることを、何故カタカナで表現するのかな、と思うこともあります。

 「都」と「みやこ」。これは室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思うもの」で始まる、抒情小曲集その2の詩で「ミヤコ」を使い分けているものです。高校生の時、この二つの「ミヤコ」をどう解釈するかで、国語の授業を1時間、止めたことがあります。詩の途中に「ひとり都の夕暮れに ふるさと思い涙ぐむ その心持て 遠きみやこに帰らばや」で終わっています。同じ「ミヤコ」を漢字とひらがなで使い分けています。一般的には、「都」も「みやこ」も東京を指していると言われています。ただ、何故、あえて文字を使い分けたのか。私は最後の「みやこ」は犀星の故郷であった金沢だと思っています。辛い思いしかない故郷に二度と帰るものかと言う思いと、それでも故郷は故郷と思う心が入り混じっての使い分けのような気がしています。犀星の「犀」は金沢を流れる犀川からとったものでしょうから。
 藤野光義さんならどう解釈していたのか、聞いておけばよかった。

 ところで、ミヤコと言えば、トライアスロンで人気の高い「宮古島」大会の参加可否の結果がそろそろ出るそうです。私の周りでも何人かの方が申し込まれているようですが、参加できるといいです。私たちは申し込みもしていません。遠きにありておもう宮古です。

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 10日間の練習状況は K&Yに記録しました。 


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