長浜城

 日にちは前後しますが、Big Lake合宿二日目の8月12日。朝、琵琶湖でスイム練習後、他のメンバーはバイクの練習へ。その間、キヨタはサボって城下町観光。

 先ずは、豊臣秀吉の出世城と言われ、秀吉が一国一城の主となった最初の拠点である長浜城の天守閣に登城。
 1573年に浅井長政が滅亡した後、滋賀県北部の湖北地方を支配したのが秀吉。姉川の合戦や小谷城攻めで功績のあった秀吉が浅井氏の領国の大半を与えられ、最初は小谷城に入りました。その翌年に湖岸に面した現在の場所(当時の地名は今浜)に築城を開始しました。これは琵琶湖の舟運を重視したことが理由と考えられています。そして1575年に城が完成、地名を長浜に改めて1582年まで在城しました。
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天守閣は再建されたもので中の階段などは鉄筋コンクリート造りです。当時の天守閣からは少し北側に建てられているそうです。当時の城に関する絵図や古文書が殆ど伝来されておらず、1983年に再建された天守閣は当時の物ではなく、当時の城郭を想定して建築されたとのことです。
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天守閣最上階の回廊からは、琵琶湖をはじめ、姉川や賤ヶ岳合戦場、小谷城、関ケ原、更には石田三成の居城だった佐和山城などを望むことができます。琵琶湖の水運を利用すれば陸上よりも便利に大津に出ることもでき、そこから京都は目と鼻の先。戦国時代にはかなり重要な場所にあったこことを感じさせられます。
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 秀吉後は、1582年の清州会議で柴田勝家に譲られ、勝家の甥である勝豊が入城しました。しかしその年の12月に、秀吉は勝豊を攻め翌年4月に行われた賤ヶ岳での柴田勝家との合戦では長浜城を軍事拠点としました。
 1685年から山内一豊が城主となりなしたが、その移封後は廃れ、湖北地方は石田三成の支配下になって行きました。
 1606年には徳川家康の異母弟の内藤信成が城主となり大改築が行われましたが、1615年に城主となっていた信成の子、信正が摂津高槻城に移封によって、湖北支配の役割は彦根城に移り、石垣や櫓材は彦根城などに運ばれ廃城となりました。

また、長浜は京都と北陸を結ぶ「北国街道」が通っており、旧街道沿いにはその名残があります。市内には「黒壁スクエァ」と呼ばれる地区や、戦国時代をテーマにした展示館があります。
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この建物は「舟板べい」と呼ばれ、木造の舟の板材が利用されています。
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写真では分かりづらいですが、道が少し曲がっていて、道に面する建物が一軒ずつ少し凸凹しています。これは武者隠しと言って、敵に追われたり迎え撃つときに武士が建物の凹みに隠れて待ち伏せするために敢えてそのような並びになっているのだそうです。
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長浜城公園内でラン練習するBig Lakeメンバー
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 城下町を見物した後は、長浜のもう一つの見どころ、「長浜鉄道スクエァ」に向かいました(続く)。

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ひとり旅。 長浜城を訪れました。
 むかし、よく(琵琶湖周航の歌)を口ずさんでいたでしょう。
 ひとり旅、 もう叶わない。

多少、観光ずれしている気もしないわけではありませんでしたが、趣のある町でした。
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Author:kiyo & yoko
努力は必ず報われるとは限りません。しかし、努力をしないと何も始まりません。いくつになっても努力を続けステップアップしていたいと思っています。

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