2012.08.28 文楽
文楽とは、そもそも人形浄瑠璃が演じられる劇場の中の一つの場所「文楽座」のことだったのですが、現代では一般的に人形浄瑠璃の代名詞として用いられるようになっています。人形浄瑠璃は、江戸時代初期に人形芝居に、三味線、浄瑠璃が合わさってできたそうです。近松門左衛門や竹本義太夫によって人気が高まり、江戸浄瑠璃は平賀源内が広めたそうです。その人形浄瑠璃を演じる場所の一つが、第三代植村文楽軒が大坂で開いた文楽座だったのです。

 人形浄瑠璃の演目の内、「阿波の鳴門」、「熊谷陣屋」、「野崎村」の一場面が図柄になっている切手があります。

『阿波の鳴門』
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 「ととさん(父)の名は、十郎兵衛、かかさん(母)名は、お弓と申します。」の台詞は良く知られています。徳島藩士の十郎兵衛と妻のお弓は、盗まれた主君の刀の詮議のため大阪で盗賊に身を窶していました。そこに巡礼姿のお鶴が訪ねてきた時、両親の名を尋ねられての返答。二人はお鶴が自分たちの実の子と分かりながらも盗賊姿の自分たちの子と分かれば、お鶴にどのような災難が降りかかるか分かりません。泣く泣く分かれていく場面です。
 その後、お弓と別れた十郎兵衛は、金のためお鶴を殺してしまうことになります。

『熊谷陣屋』
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 平家物語の聞かせどころの一つ、一の谷の合戦で、熊谷直実が平敦盛を討ち取った後の場面です。直実は源義経から、天皇の血統を引く敦盛は殺してはならないと密命を帯びていたのですが、討ち取ってしまいました。そして引き揚げてきた陣屋に直実の妻が息子・小次郎の安否を、そして敦盛の母親も息子の安否を尋ねに来ます。そこで敦盛が直実によって討ち取られたと知った敦盛の母は子の仇を取ろうとします。直実は若干十六歳だった敦盛の最期がどれ程潔かったかを敦盛の母親に語り聞かせ、その場は収まりました。
 その後、義経が敦盛の首実検に現れますが、敦盛を打ち取ってしまった直実は、敦盛の首の代わりに我が子小次郎を殺しその首を差し出しました。そして世を儚んだ直実は武士の身を捨て仏門に入り我が子の供養を続けることになった。その陣屋での場面が図柄になっています。

『野崎村』
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 江戸に丁稚奉公に出ていた息子・久松が奉公先のお店の金を盗んだ疑いをかけられ、実家に戻って着ました。これを機に、久松の父親・久作は考えました。久作には妻の連れ子であるおみつと言う娘がいました。そして久松も久作の養子であったため、血の繋がりのない久松をおみつを結婚させようとしたのです。ところが、久松の奉公先の娘・お染が久松を追いかけてきました。これを見たおみつは髪を落とし尼になり、久松とお染を結ばせようとしました。そしてお染の母親も久松との結婚を認めました。久松とお染は、それぞれ海路と陸路に分かれて江戸へと戻っていきました。ラストシーンはその二人の後姿を見送りながらおみつが泣き崩れて行きます。
 因みに、逢瀬を重ねた男女が、何らかの事情で別々の帰路につくことを「お染久松」と言いましたが、今では殆ど使われていないようです。

このような伝統芸能、一人の為政者の好みで廃れさせて欲しくはないです。

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