鎌倉の稲村ケ崎から、相模湾と江の島越しの富士山を見たくて往復約100㎞のサイクリングに出かけました。 

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『真白き富士の根 緑の江の島』。この詩の通りの景色を期待していましたが、生憎の曇り空。それでも何とか雲の合間から冠雪した富士の山頂を見ることができました。ところで、この歌をご存知の方はかなりのご高齢でしょうか。

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1930年(明治43年)1月23日。鎌倉市の稲村ケ崎沖で、旧制「逗子開成中学」の生徒11人と小学生1人が乗ったボートが転覆し全員が命を落としました。それを追悼して作られた歌です。6番まであり若くて帰らぬ人となった子どもたちへの哀歌になっています。しかし、この事故の原因。不良生徒が学校所有のボートを無断で持ち出したうえ、天候の急変を恐れた地元の漁師さんの制止も聞かず漕ぎだしたことだそうです。

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 この稲村ケ崎に纏わる歌がもう一つ、あります。これもまた、ある程度の年齢以上の方でなければご存じないかも知れません。
『七里ヶ浜の 磯伝い
 稲村ケ崎の 名将の
 剣投ぜし 古戦場』

ボート遭難事故からさらに遡ること600年。鎌倉時代末期の1333年(元弘3年)5月21日、後醍醐天皇の綸旨を受けた新田義貞が討幕のため鎌倉を攻めました。しかし鎌倉は東・北・西の三方を山に囲まれ、南は相模湾が広がる難攻不落の場所。義貞は鎌倉の相模湾に面す七里ヶ浜の西端にある稲村ケ崎から攻撃を仕掛けました。しかし、海岸までせり出した小高い岬を越えての進撃は難航します。そこで義貞は相模湾に剣を投げ龍神に祈願したところ潮が引き岬伝いに干潟ができました。その干潟を伝って鎌倉に攻め込み、また相模湾に浮かべられていた幕府方の船も引き潮のため沖に流されたこともあり幕府を倒すことに成功しました。恐らく義貞は潮の干満を予め知っていたうえでの大芝居だったのかも知れません。

平氏から源氏、そして北条氏へと目まぐるしく移り変わった武士政権。後醍醐天皇の勅命を受け建武新政の中心を担った義貞も、その後、足利尊氏と対立し最期は越前の国で戦死してしまいます。

鎌倉側から見た稲村ケ崎。小さいながらも海にせり出した小高い丘になっており、向こう側から攻めるには大きな壁になっていることが分かります。

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この地に立ちますと、人生の儚さも感じさせられます。

江の島の向こうに見えるのは伊豆の山々です。

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今日の相模湾は、そのような過酷な歴史の面影も感じさせないような穏やかさでした。

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