「戦時中、今治でゼロ戦の模型を作っていたんですよ」。 松山市にお住いの80歳後半の男性の方のお話です。話の初めを聞いた時は「戦時中に模型作りって、そんな悠長な。」と思いましたが、模型を作っていた理由を聞いて唖然としました。

 模型を作っていた場所は、今治市内にあった『倉敷紡績今治工場』の一隅。そこが兵器工場になっていました。太平洋戦争後期、旧制中学の生徒だったその方は、勤労学徒として動員され、ゼロ戦の模型を作っていたそうです。何故、実物ではなく模型だったのでしょうか。
 その方によりますと、
 「日本には既に新たな実物を造るだけの余力はなかった。けれど模型を数多く作ることで、模型があるくらいだから実物も数多くあるに違いない。実物が数多くあるから模型も作ることができる、と国民に思わせるためだった」。

 太平洋戦争後期、日本の敗色が濃厚になって行くにも拘らず、真実を公にせず国民の士気を高めるための施策だったのでしょう。

 そして昭和20年8月5日から6日未明にかけ(終戦の詔勅が出される僅か10日前)、この兵器工場に女子挺身隊として松山から動員されていた高等女学校の生徒の内24人が今治市への空襲から避難している途中で米軍機の襲撃を受け命を落としました。これは今治を襲った3度目の空襲。市街地の8割近くが焼け尽くされたそうです。

この方は、勤労学徒から予科練に進み終戦を迎えました。任地から松山へ帰る途中、瀬戸内の海上から空襲で今治の町が亡くなっているのを目の当たりにし涙が零れたそうです。それでも焼け残った「ラヂウム温泉」の尖塔には少し元気をもらったそうです。

 当時を知る人も少なくなり、時代もまた大きな曲がり角を迎えつつあるようです。当時の記憶を誰が伝え残してくれるのでしょう。

今治の戦前・戦中・戦後を見続けてきた『ラヂウム温泉』。

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兵器工場の跡地。今は大新田(オオシンデン)公園となり野球場やグランドがあります。以前は市営プールやテニスコートもありました。平和で健康の象徴の場でもあります。

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犠牲になった女学生の慰霊の碑。今治市北部の波止浜地区の円蔵時境内にあります。

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キヨタの母校、今治北高の前身の県立今治女学校の生徒さん11名も避難した学校の裏山で犠牲となり、校内に追悼の碑が設けられています。僅か100m四方の学校敷地内に500発もの焼夷弾が落とされたそうです。

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